2026年02月22日 広島牛田教会との合同礼拝
2026年2月22日 主日礼拝 式順・説教
日本基督教団広島牛田教会との合同礼拝
会場:広島牛田教会 説教は日本語のみ
〇黙 祷
〇招 詞 イザヤ(이사야) 55章 6~7節
〇讃 頌 讃頌歌 42
〇主 祈 祷 主の祈り
〇交 読 文 交読文 126 (四旬節[3] )
〇讃 頌 讃頌歌 314
〇聖書奉読 マタイによる福音書 (마태복음)
19章 16~30節
〇祈 祷
〇讃 揚 “しずけき河のきしべを” 合同聖歌隊
〇信仰告白 使徒信条
〇説 教 「限神の召しはどこに?
(하나님의 부르심은 어디에 있는가?)」
〇祈 祷
〇讃 頌 讃頌歌 314
〇献 金
〇感謝祈祷
〇報 告
〇頌 栄 讃頌歌 1
〇祝 祷
※ 説教映像をYouTubeでご覧いただけます。
【 2026年 2月 22日 主日礼拝説教(要約版)】
「永遠の命を得るために」
マタイによる福音書 19章 16~30節
今日の聖書箇所は、ある金持ちの青年がイエスさまに近寄ってきて「先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16節)と、質問したことから始まります。しばらくのやり取りの後、イエスさまが「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)と言われると、金持ちの青年は「悲しみながら立ち去った」(22節)という話です。皆さんは、この話をどのように受け止めたでしょうか。
では、少しずつ、聖書の内容を考えて見たいと思います。まず、この金持ちの青年が求めていた「永遠の命」のことですが、「永遠の命」って何でしょう。私たちは、それを分かっているようで、でも漠然としているような気がします。
「永遠の命」とは、もちろん、それは単に「死なずにずっと生き続けること」を意味することではないことは分かります。じゃ、何を意味するのかということを、イエスさまの御言葉から考えますと、この「永遠の命」には、次の三つのことを意味しているのかと思います。
まず、言えることは、この「永遠の命」というのが、人の命の長さを表しているのではなく、命の質を表しているのであって、それは、苦しみや罪、死の支配から解放された、神さまの愛に満たされた状態を意味しています。
それから、二つ目は、私たちが死んだ後に手に入るボーナスのようなものではなく、今、手にする神さまからの祝福だということです。それをヨハネによる福音書17章3節ではこのように語っています。「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
つまり、「神さまを知る(深い信頼関係を築く)こと」そのものが永遠の命であり、信じた瞬間からその歩みは始まると語られています。
それから、三つ目は、人間の行い、努力によって得られるものではなく、自己執着から解き放たれて、神さまに全て依り頼むことによって得られるものであると思われます。
金持ちの青年は、そもそも、この「永遠の命」というものを大きく誤解していたようです。青年はイエスさまに「先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とイエスさまに尋ねています。「どんな善いことをすれば」、それは「永遠の命」を、「自分の努力や功績(善行)によって、その報いとして得るもの」と、彼は捉えていたのです。そもそもそこが違っていたわけですね。
そのため、イエスさまはそれに気付かせようと「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」と言われました。「善いこと」ではなく「善い方は」と、永遠の命を与えてくださる主なる神さまに彼の思い(その願い)を向けさせようとされました。
その上で、イエスさまは改めて「もし命を得たいなら、掟を守りなさい」と言われたのです。この時、イエスさまが考えておられた掟というのは、22章で最も重要な掟として語られた「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(22:37)、そして、「隣人を自分のように愛しなさい」(22:39)という掟だと思います。
しかし、この青年は「どの掟ですか」と、神さまに目を向けるのではなく、自分の行いに依然として目が向いているのです。イエスさまはそんな青年に皮肉を込めて、誰もが知っている掟、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」(18-19節)と、「十戒」の中の戒めから、イエスさまの言葉で言われました。
当然、青年は「そういうことはみな守ってきました」と答えます。彼には、そのような掟はすでに知っているし、守ってきたという自負があったのです。それで「まだ何か欠けているでしょうか」と再び問い返しました。
青年のこの言葉は、決しておごり高ぶったものではなかったと思います。彼一人が特別立派なのではなくて、家庭に恵まれて真面目に育ったユダヤ人の青年であれば誰もがそのように答えたでしょうし、彼は自分の豊かさを自分の努力だけで得たものではなく、父親から受け継がれた財産であれ、教育であれ、それがどれほど恵まれたものであり、大事なものなのかも分かっていたでしょう。ですから、彼はそれを守るためにも、親の言いつけを守り、聖書を学び、掟を誰よりも真面目に守ってきたのです。しかし、掟に従って正しい人間として生きていく歩みが、そのまま永遠の命に結びつくという確証が、彼にはなかったのです。青年はまだ自分の行いには欠けがあるのではないかと感じていました。
そのため、イエスさまは彼にはっきりとこう言われました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」(21節)
イエスさまはここでわざわざ「永遠の命を得るために」ではなく、「完全になりたいのなら」と言い換えております。
イエスさまは青年に、あなたの考える行いによって完全になりたいのなら、あなたの全てを差し出しなさいと言われました。しかし、青年は持っているものを全て差し出すなんて出来ません。悲しみながらその場を立ち去ることしか出来ませんでした。
聖書は、彼が「たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と言います。これは、単に金持ちということではなく、彼には捨てられない大切なものが多くあったということです。
イエスさまは、金持ちの青年に「完全になりたい」なんて、到底、人間には出来ない。人間の救い、すなわち永遠の命は、神さまによってもたらされるものだ、と教えたかったのでしょう。でも、彼は、それに気付くことなく、悲しみながら立ち去りました。イエスさまはそれを見て、弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しい。」(23-24節)
弟子たちはイエスさまのこの言葉を聞いて驚くばかりでした。このような富もあり、品行方正で、律法を忠実に守っていると思われる青年が救われないなんて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と、弟子たちは、自分たちの救いに不安を覚えます。
そこで、ペトロが「わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と、この青年が出来なかった、自分たちの行いに対して、何か報いがあるのかと問うたのです。自分たちの不安を解消するイエスさまの言葉を聞きたかったのでしょう。
それにしても、ペトロをはじめとする弟子たちは、未だに理解していません。永遠の命につながる救いが何かの行いによって与えられるのではなく、ただただ、神さまの愛と恵みによって与えられるということを。「それは人間に出来ることではないが、神は何でもできる」(26節)
人の行いによって救われるのではなく、先ほど言いましたように、真の神さまを知って、深い信頼関係の中で、神さまに依り頼むことによって、その歩みは始まるのです。弟子たちはその歩みを始めておりました。主イエス・キリストは、そのために十字架への道を進んでおられました。弟子たちの救いは確実に近づいていたのです。
そして、イエスさまは、28~29節で新しい世界(神の国)における救われた者たちの様子を語られています。
それから、イエスさまは「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(30節)と、神さまの愛に「早い・遅い」や「功績の多い・少ない」の差はないという、神さまの惜しみない愛を示されました。
聖書には、この金持ちの青年と対照的な人物が登場しています。最後に、その二人の人を紹介して終わろうと思います。
まず、一人目は、マルコによる福音書12章登場するレプトン銅貨2枚を献金したやもめです。彼女は金持ちの青年と違って、本当に貧しかった。今日、食べる物にも困るような生活です。それで彼女は持っているレプトン銅貨2枚全てを献げました。その姿を見たイエスさまは「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中でだれよりもたくさん入れた。この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ12:43-44)と言われました。
イエスさまは、彼女が持っている物をすべて献げたその行いだけを評価したわけではありません。彼女が貧しい中にありながらも、どこまで神さまに依り頼み、神さまに自分は支えられていることを感謝する、その信仰を祝福されたのです。
そして、二人目は、ルカによる福音書19章に登場する徴税人ザアカイです。ザアカイも金持ちでした。先の青年と違っていたのは、自他ともに認める罪人であったということです。世間の評判はすこぶる悪い人物でした。ザアカイは、イエスさまの評判を聞いて、木の上に登って、通りを通られるイエスさまの姿を見ようとしました。そんな彼にイエスさまは声をかけられます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい」(ルカ19:5)と声をかけられました。
イエスさまは「ザアカイ」と名指しで呼ばれました。「あなたの家に泊まりたい」とは、わたしはあなたを愛している、完全に受け入れている、ということの証です。ザアカイは「急いで降りて来なさい」というイエスさまの言葉に対して、少しも迷うことなく、「急いで降りて来て、喜んで」イエスさまを迎えました。
ザアカイはイエスさまに何も言われなくとも、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。
ザアカイは持っている物すべてを売り払い貧しい人に施そうとしたわけではありません。財産の半分です。ザアカイは、別に「良いこと」して救われたいから、そう言ったのではありません。彼は自分が救われることなんて、あきらめていました。彼はそれまでに犯した罪で、滅びることは分かっていたのです。彼の施しや償いは、そんな自分を受け入れてくださったイエスさまに感謝し、救われた喜びから来るものだったのです。ザアカイは罪から解放されました。主イエス・キリストを私の主として信じる信仰生活に入ったのです。
皆さん、私たちもその生活に招かれています。主イエス・キリストは、ご存じのように、この後、全人類の罪のために十字架につき、私たちのための罪の裁きを完全に受けてくださいました。そして、三日目に死よりよみがえり、信じる者に罪の赦しと永遠の命を与えようとされました。
私たちはいくら頑張っても完全なものにはなりません。どこまでも罪人のままです。品行方正に生きることは、頑張ったら出来るでしょう。しかし、いつまでも残る罪のために、この金持ちの青年のように不安なのです。不安だけならまだしも、そこには滅びの人生しかないのです。私たちに出来ることは、主イエス・キリストを通して、神さまの赦しを求めるしかありません。
主イエス・キリストは今も生きておられ、私たち一人ひとりに「わたしについてきなさい」と声をかけてくださっておられます。皆さん、この主に従って参りましょう。
私たちが、主イエス・キリストを信じた時から、神の力が私たちの内に働いて、神の国が近づきました。らくだが針の穴を通ったのです。
皆さん、私たちはもはや永遠の命を得るために善いことを模索する必要はありません。すでに永遠の命を手に入れているのです。だからこそ、私たちはキリストの義に覆われて、隣人愛の実践に向かわなければならないのです。
【2026년 2월 22일 주일예배(요약판)】
“영원한 생명을 얻기 위하여”
마태복음 19장 16~30절
오늘의 성경 본문은 한 부자 청년이 예수님께 나아와 “선생님이여 내가 무슨 선한 일을 하여야 영생을 얻으리이까”(16절)라고 질문한 데서 시작됩니다. 잠시 대화를 나누신 후 예수님께서 “네가 온전하고자 할진대 가서 네 소유를 팔아 가난한 자들에게 주라 그리하면 하늘에서 보화가 네게 있으리라 그리고 와서 나를 따르라”(21절)라고 말씀하시자, 그 청년은 “재물이 많으므로 이 말씀을 듣고 근심하며 가니라”(22절)고 기록되어 있습니다. 여러분은 이 이야기를 어떻게 받아들이셨습니까?
이제 본문을 차근차근 살펴보겠습니다. 먼저 이 부자 청년이 구하던 “영생(영원한 생명)”이 무엇인지 생각해 보아야 하겠습니다. 우리는 그것을 알고 있는 듯하면서도, 한편으로는 막연하게 느끼고 있는지도 모릅니다.
“영원한 생명”은 단순히 죽지 않고 끝없이 사는 것을 의미하지는 않습니다. 그렇다면 무엇을 의미하는 것일까요? 예수님의 말씀을 통해 생각해 보면, 이 “영원한 생명”‘’은 다음 세 가지를 뜻한다고 볼 수 있습니다.
첫째, 영원한 생명은 생명의 길이를 말하는 것이 아니라 생명의 질을 의미합니다. 그것은 고통과 죄와 죽음의 지배에서 해방되어, 하나님의 사랑 안에 충만히 거하는 상태를 가리킵니다.
둘째, 영원한 생명은 우리가 죽은 뒤에 받는 보너스와 같은 것이 아니라, 지금 이 순간 하나님께로부터 받는 축복입니다. 요한복음 17장 3절은 이렇게 말씀합니다. “영생은 곧 유일하신 참 하나님과 그가 보내신 자 예수 그리스도를 아는 것이니이다.”
곧 하나님을 알고(깊은 신뢰의 관계를 맺는 것) 그 자체가 영원한 생명이며, 믿는 순간부터 그 삶은 시작된다는 것입니다.
셋째, 영원한 생명은 인간의 행위나 노력으로 얻어지는 것이 아니라, 자기 집착에서 벗어나 하나님께 전적으로 의지할 때 주어지는 것입니다.
그러나 이 부자 청년은 처음부터 영원한 생명을 크게 오해하고 있었습니다. 그는 “무슨 선한 일을 하여야” 영생을 얻을 수 있는지 물었습니다. 그는 영원한 생명을 자신의 노력과 공로에 대한 보상으로 이해했던 것입니다. 바로 그 점이 잘못이었습니다.
그래서 예수님은 “어찌하여 선한 일을 내게 묻느냐 선한 이는 오직 한 분이시니라”라고 말씀하셨습니다. “선한 일”이 아니라 “선한 이”이신 하나님께 그의 시선을 돌리게 하려 하신 것입니다.
그리고 예수님은 “네가 생명에 들어가려면 계명들을 지키라”고 하셨습니다. 여기서 예수님이 염두에 두신 계명은 마태복음 22장에서 가장 크고 첫째 되는 계명으로 말씀하신 “네 마음을 다하고 목숨을 다하고 뜻을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하라”(22:37)와 “네 이웃을 네 자신과 같이 사랑하라”(22:39)였을 것입니다.
그러나 청년은 “어느 계명이오니이까”라고 묻습니다. 여전히 하나님이 아니라 자신의 행위에 관심이 있었던 것입니다. 예수님은 “살인하지 말라, 간음하지 말라, 도둑질하지 말라, 거짓 증언하지 말라, 네 부모를 공경하라, 네 이웃을 네 자신과 같이 사랑하라”(18-19절)라고 말씀하셨습니다.
청년은 “이 모든 것을 내가 지키었사온대 아직도 무엇이 부족하니이까”라고 답합니다. 그는 오만해서가 아니라, 진지하게 부족함을 느끼고 있었던 것입니다. 율법을 지키며 바르게 살아왔지만, 그것이 곧 영원한 생명으로 이어진다는 확신은 없었습니다.
그래서 예수님은 말씀하셨습니다. “네가 온전하고자 할진대 가서 네 소유를 팔아 가난한 자들에게 주라.”(21절)
여기서 예수님은 “영생을 얻고자 할진대”가 아니라 “온전하고자 할진대”라고 표현을 바꾸셨습니다. 네 행위로 완전해지고자 한다면 모든 것을 내놓으라는 것입니다. 그러나 그는 그렇게 할 수 없었습니다. 성경은 그가 재물이 많았기 때문이라고 합니다. 이는 단지 부자였다는 의미가 아니라, 내려놓을 수 없는 것이 많았다는 뜻입니다.
예수님은 인간의 완전함으로는 구원에 이를 수 없으며, 구원은 하나님께로부터 온다는 사실을 가르치고자 하셨습니다. 그러나 그는 깨닫지 못한 채 떠났습니다.
이에 예수님은“부자가 천국에 들어가기가 어려우니라… 낙타가 바늘귀로 들어가는 것이 부자가 하나님의 나라에 들어가는 것보다 쉬우니라”(23-24절)고 말씀하셨습니다.
제자들은 놀라 “그렇다면 누가 구원을 얻을 수 있나이까”라고 묻습니다.
그러자 예수님은 분명히 말씀하셨습니다. “사람으로는 할 수 없으나 하나님으로서는 다 하실 수 있느니라”(26절)
구원은 행위의 결과가 아니라, 하나님을 알고 신뢰하며 그분께 의지하는 데서 시작됩니다. 예수님은 이미 십자가의 길을 걸어가고 계셨습니다. 제자들의 구원은 그 은혜 안에서 이루어지고 있었습니다.
그리고 “먼저 된 자로서 나중 되고 나중 된 자로서 먼저 될 자가 많으니라”(30절)고 말씀하셨습니다. 하나님의 사랑에는 빠르고 느림, 공로의 많고 적음의 차별이 없습니다.
이 부자 청년과 대조되는 두 인물이 있습니다.
첫째는 마가복음 12장에 나오는 가난한 과부입니다. 그녀는 렙돈 두 닢, 곧 생활비 전부를 드렸습니다. 예수님은 그녀의 행위만이 아니라, 가난 속에서도 하나님을 전적으로 의지하는 그 믿음을 보셨습니다.
둘째는 누가복음 19장에 나오는 세리 삭개오입니다. 그는 부자였지만 죄인이었습니다. 예수님께서 “삭개오야 속히 내려오라 내가 오늘 네 집에 유하여야 하겠다”(눅19:5)고 말씀하셨을 때, 그는 기쁨으로 영접했습니다. 그리고 자발적으로 재산의 절반을 가난한 자들에게 주고, 속여 빼앗은 것이 있다면 네 배로 갚겠다고 했습니다. 그것은 구원을 얻기 위한 행위가 아니라, 이미 받은 은혜에 대한 감사의 표현이었습니다.
사랑하는 여러분, 우리도 그 삶으로 부름받았습니다. 주 예수 그리스도께서는 우리의 죄를 위하여 십자가에 달리시고, 사흘 만에 부활하셔서 믿는 자에게 죄 사함과 영원한 생명을 주셨습니다.
우리는 결코 완전해질 수 없습니다. 아무리 바르게 살아도 죄의 문제는 남아 있습니다. 우리가 할 수 있는 일은 오직 주 예수 그리스도를 통해 하나님의 용서를 구하는 것뿐입니다.
지금도 살아 계신 주 예수 그리스도께서 우리 각 사람에게 말씀하십니다. “나를 따르라.”
우리가 주님을 믿는 순간부터 하나님의 능력이 우리 안에서 역사하며, 하나님의 나라가 우리에게 임하였습니다. 낙타가 바늘귀를 통과한 것입니다.
그러므로 우리는 더 이상 영원한 생명을 얻기 위해 선한 일을 찾을 필요가 없습니다. 우리는 이미 영원한 생명을 얻었습니다. 그러므로 이제는 그리스도의 의로 덧입은 자로서, 이웃 사랑의 삶으로 나아가야 할 것입니다.
