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2026年05月10日 野外礼拝 式順・説教

 

2026年5月10日 主日礼拝(野外礼拝) 式順・説教 


〇黙    祷
〇招    詞     ローマ(로마서) 12章 1~2節
〇讃    頌    讃頌歌 478
〇祈   祷
〇聖書奉読    マタイによる福音書 (마태복음)
                    22章 15~22節
〇説   教    「神のものは神に返しなさい
         (하나님의 것은 하나님께 바치라)」
〇祈  祷
〇献    金   
〇感謝祈祷       
〇交 わ り    
〇讃   頌   讃頌歌 212
〇祝   祷


※ 説教映像をYouTubeでご覧いただけます。


【 2026年 5月 10日 主日礼拝説教】

「神のものは神に返しなさい」 マタイ 22章 15~22節


 イエスさまは、エルサレム神殿で祭司長や長老たちと直接対峙することになり、三つの譬え話、「二人の息子の譬え」「ぶどう園と農夫の譬え、そして、先週の「婚宴の譬え」を通して、エルサレム指導者の罪を指摘し、神さまの祝福が、あなたたちではなく、本来与えられる筈のない者たちへと移されたことを宣言されました。


 それに怒りを覚えたファリサイ派の人々が、本来、敵対しておりましたヘロデ派の人々と共闘して、イエスさまを言葉巧みにイエスさまと陥れようとやって来ました。
 ユダヤの指導者たちは、それぞれ派閥に属しておりましたが、ローマ政権に親しい立場を取っていたのが、「ヘロデ派」と「サドカイ派」で、政権与党の立場です。
 一方、ファリサイ派の人たちは、反ローマ派の人たちで、政権野党の立場に当たります。


 与党である「サドカイ派」は、エルサレム神殿の祭司や貴族が多く所属し、ローマ政権の力を得て、自分たちの利権を守ろうとしていた人々です。そして、同じ、与党である「ヘロデ派」は、その名前の通り、ヘロデ大王に関係する人々で、彼らは本来ユダヤ人でなくエドム人なのですが、ユダヤ人の関心を得るため、表面上はユダヤ教に改宗していました。そんな彼らが、ヘロデ家の権限を回復し、王を誕生させ、ヘロデ大王時代の政治権力に戻そうとしていたんですね。しかし、このヘロデ王は、異教的なものを国内に持ち込み、強権政治でユダヤ人たちを苦しめておりましたので、ユダヤ人たちにはきわめて評判の悪い王でした。ですから、本来、「サドカイ派」と「ヘロデ派」は全く立場と思想が違うのですが、お互いに自分たちの利権を守り、親ローマ派として政権を安定させるために協力していたようです。
 一方、ファリサイ派の人々は、反ローマ派であり、世俗から離れ、純粋に律法を厳格に守ることで神さまの祝福を得ようと考える人々であったのですが、イエスさまの時代、彼らは形式主義に陥り、その信仰は形だけのものになっていたようです。


 ですから、イエスさまのもとに、ファリサイ派とヘロデ派の人々が一緒に来るというのは、前代未聞のことです。ただ、目的が一緒だったわけですが、その目的が「イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけよう」(15節)というものでした。


 彼らはイエスさまに「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(17節)と質問します。それも、彼らの言葉は、大変陰湿なものでした。彼らは、あたかもイエスさまを尊敬して、へりくだって質問するかのような態度を取っています。
 でも、イエスさまはだまされません。イエスさまは、彼らの悪意にひるむことなく、ここから4つの問答を通して神さまの真理についてを語られました。今日の聖書箇所は、その最初の問答として、ローマ皇帝への納税の是非を巡る論議が交わされております。


 彼らの質問は巧妙でした。イエスさまが「税金を皇帝に納めることは律法にかなっていない」と答えたら、「ローマ帝国の法に逆らう犯罪人、皇帝に反逆する者だ」とローマに訴え、うまく行けば投獄か死刑に処してもらうことができます。反対に、「税金を皇帝に納めることは律法にかなっている」と答えると、ローマの重税に苦しんでいたイスラエルの民衆から反発を受け、裏切り者と見做されます。
 彼らの「律法に適っているか、適っていないか」という質問は、一見、聖書の教えを重んじているように聞こえます。しかし、それは神さまの御旨を知ろうとする問いではなく、人を裁くために用いられたものに過ぎませんでした。


 イエスさまはこの悪意に満ちた質問には引っかかりません。逆に、彼らを困惑させる答えをなさったのです。「税金を納めるお金を見せなさい。」(19節)
 当時、ユダヤで流通していた貨幣は、ユダヤの貨幣である「シェケル銀貨」やギリシャの貨幣である「ドラクマ銀貨」もありましたが、ローマの貨幣であるデナリオン銀貨が一般的に流通していました。このデナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘が刻印されていました。律法によれば、十戒にありますように「あなたがたは刻んだ像をつくってはならない」のですから、皇帝の像が刻まれた銀貨をもつことも厳密には律法違反となるはずです。しかし、「律法に適っているか、いないか」などと質問した当人たちには、そういう自覚はありませんでした。ですから彼らの質問は「偽善だ」とイエスさまは指摘されました。


 銀貨に刻まれた像が皇帝のものであることは誰もが知っていました。そこで、イエスさまは言われます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(21節)
 「皇帝のものは皇帝に返しなさい」とだけを聞きますと、皇帝に税金を納めることは合法だということになり、税金を納めることはイスラエルの神に対する裏切りだ、と聞こえます。ただでさえ、税金ばかりむしり取っていく国家権力に苦しみ民衆にとっては容認でしません。その税金で権力者たちは私腹を肥やしています。これに対して、誰でも不満を持っています。
 ただ、イエスさまが強調しているのは「神のものは神に返しなさい」ということであり、この「返しなさい」と仰っていることを私たちは注意深く受け止めなければなりません。


 彼らの質問は「皇帝に税金を納めるのは」(17節)でありました。実は「納める」と訳されていることばの元の意味は「与える、施す」という意味です。しかし、イエスさまは「与える」ではなく「返す」という言葉を敢えて使っておられます。敵であるローマ皇帝に与えるお金なんてないと言って当然ですよね。でも、イエスさまはそれは与えるものではなくて返すものだ、と言われているんです。


 「与える」というのは、「施す」といういう意味もあることから、それは義務ではありません。でも、「返す」というのは、それは返済なんですから義務です。納税は返済金であって、それはすべての国民の義務であるということですね。その税金で国民の安全や安心が保たれるということです。たとえ国家の支配者が憎き敵であり、自分を神とするような人物であっても、税金は義務として返さなければならないとイエスさまは言われているのです。


 そして、その上で、イエスさまは「神のものは神に返しなさい」と言われております。私たちは献金の祈りで「あなたから頂いた一部をお返しします」と祈ることが良くあります。私たちが頂いた、与えられたと思っているものは、実は神さまに管理を任され預けられているものに過ぎません。私たちは神さまの財産の管理人ということです。預けられているものであって、自分のものではありません。それを捧げ物、献金という形でお返ししているわけですね。それを返さないと盗んだことになります。イエスさまは神さまから頂いたものは神さまに返しなさいと言われます。


 イエスさまの言葉は、税金とか献金のことだけが言われているのではありません。私たちの命であれ、能力であれ、私たちの全領域に関わるすべてが神さまから与えられたものです。もちろん、その与えられたものを使って、自分なりに努力し、一生懸命に働いてお金を得たし、今の生活があるんですけども、それでも、イエスさまは「神さまのものは神さまに返しなさい」と言われるのです。献金も奉仕もすべてが義務であるということです。だから、「私たちはするべきことをしただけです」という僕(しもべ)の姿勢が求められるのです。決して、それを誇ったり、自分の功績にしたりは出来ないのです。


 今、献金や奉仕は私たちの義務だと言いましたが、義務だから仕方なくお返しするということではありません。私たちはイエスさまが私たちのために命を献げてくださり、罪と滅びより救っていただいたこと、そしてこれまで神の子どもとして養われ、豊かな恵みをいただいたことなどを覚えて、献金や奉仕でお返しするのです。税金であれば仕方なくでも構いませんが、献金や奉仕といったものは、感謝の気持ちで喜んで、神さまにお返しするのです。


 ただ、ここで「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」ということを曲解する人たちがいます。物質的なものを地上の王に返し、霊的なもの、精神的なものは神さまに返すといった考えです。これは、世俗にまみれて物質主義的な生き方をしてたしても、心は神さまにあるから大丈夫と言った、二元論的な解釈なのですが、極端に言えば、平日はこの世の考え方で生きていて、神さまの事を忘れても、日曜の礼拝の時間だけ神さまを礼拝すれば良いということですね。
 イエスさまはそういうことを仰っているのではありません。私たちの礼拝対象は常に生ける唯一の神さまでありますので、私たちの心も体もも物質も神さまに献げて、神の国の律法である御言葉に従って歩んで行かなければなりません。その上で、地上の国民の一員としての社会的義務も果たしていくのです。


 今の時代、自己実現がもてはやされ、自分のものは自分の考えで、自分の好きなように使ってかまわないとか、自分の人生、自分の好きなように生きる、となりがちです。確かに私たちには自由に自分の人生を歩むことが出来ます。しかし、その自分の人生は、神さまの御心に生き、神さまに栄光を帰すためにあることを忘れてはいけません。今日、教えられている神さまの御心は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」です。これは神さまの命令です。実践して行きたいと願います。

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投稿日:2026年05月10日